日本の官房長官、北東アジアの共同歴史教科書に否定的な立場
http://news.naver.com/main/ranking/read.nhn?mid=etc&sid1=111&rankingType=popular_day&oid=001&aid=0006597401&date=20131114&type=1&rankingSectionId=104&rankingSeq=6
日本の歴史教科書がいちばんマトモ。
反応は金太郎飴なのでちょっとだけ。
 
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(東京=聯合ニュース)キム・ヨンス特派員

日本政府のスポークスマンである菅義偉官房長官は、パククネ大統領が北東アジア共同歴史教科書の発刊を提案したことについて、14日に否定的な立場を明らかにした。

菅長官は同日午後の定例会見で、「過去の問題については、日本側の立場と努力を韓国側に十分に説明してきた」とし、「日本側の(これらの)メッセージをそのまま(韓国側が)受け入れればよい」と述べた。

彼はまた、「韓国は非常に重要な隣国で、協力関係を構築することができるよう根気よく努力する」と付け加えた。

一方菅長官は前日、韓日国防次官会談で、韓国側が日本の集団的自衛権の推進に懸念を表明したことについては、「韓国は重要な隣国であるだけに、日本の安全保障を説明することは当然である。(これらの)説明で理解されるだろう」と述べた。



韓国人のコメント


・共同にすると自分たちが美化や歪曲ができなくなるからだ。
共感599非共感12

・おまえたちのはファンタジー小説だから。
共感503非共感8

・北東アジアはおまえに対して否定的な立場だ。
共感491非共感12

・「立場」は猿ではなく、人に使う言葉ではないか?
共感345非共感9

・なんという大バカ!
共感270非共感9

・北東アジアでは日本に被害を受けていない国がないから、否定的になるんだ…
共感62非共感2

・お前の国だけ落ちぶれろ。
そしたら北東アジアからいじめられるし、いじめられたらまともな精神になるだろう。
共感57非共感1

・おまえのようなやつと誰が首脳会談したいと思うんだ?
共感53非共感3

・あいつは歴史の勉強をしていないようだ。
共感50非共感1

・自分たちが書いた歴史教科書が、真実の歴史と対照的だから、自分たちがこれまで書いた歴史教科書が偽りだったということがバレるかと思って、否定しているんだ。
共感50非共感2

・日本の歴史が一番短くて、北東アジアの歴史に影響を及ぼしたのがせいぜい壬辰倭乱と西洋の文物を先に受けとって半世紀間だけ活躍した、それですべてだからだ。
2500年、島のなかで自分たちだけで殴り合ってただけで、外に出たことがな。
共感41非共感1

・そうだろう。
自分たちの蛮行が満天の下にバレるからな。
共感35非共感2

・地球、日本の存在に否定的な立場。
共感37非共感4

・日本が韓国を近代化させたと虚勢をはるのが理解できない。
朝鮮は少しずつ近代化していく雰囲気だった。
6.25で完全に初期化されてから立ち上がったんだ
今良い暮らしをしてるのも日本のおかげだという猿たち。
共感31非共感0

・日本人はなぜイカみたいなんだ?
ブスという意味のイカではなく、本物のイカに似てる…ふふふふふ
言葉だけではいつも「重要な隣国」と言うのに、なぜ韓国の要求にはすべて噛みつくのか?
共感33非共感3

・歴史も知らず、自分の有利な歴史を書くやつら…
面白い奴らだね。悪い奴ら。
共感26非共感1

・いつも重要な隣国というが、重要だというのが何を意味してるんだ?
後で日本が沈没したときに、朝鮮半島に避難しなければならないから、重要なのか?
共感25非共感2

・日本は事実を否定し、間違ったことを認定している。
これでどうして真正性ある関係になれるんだ。
共感23非共感1

・偽りなく歴史をまともに書けば、日本はおそらく百済の植民地だった。
共感19非共感0

・日本の科目:国語、数学、英語、科学、社会、ファンタジー小説
共感16非共感0

・日本はきれいな歴史を記憶したいんだ。
いくら彼らの歴史が汚れた黒歴史でも。
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・ドイツとフランスも和解して一緒に共同歴史教科書を作ったけど、やはり日本は駄目なやつ。
共感15非共感0

・汚染水を防いでみろ。
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・倭人たちは、韓国大統領の賢明な提案を受け入れなさい。
共感15非共感0

・日本の傲慢でわがままな態度に腹がたつ。
だが、それ以上に概念のない韓国人の子供のコメントに腹が立つ。
親が金儲けして、学校や塾に送ってくださってるのを、何と思ってるのか。
歴史も知らず、偉人をテロリストだというなんて…他の国の人々が見るかと思って恥ずかしい…恥ずかしい…
共感16非共感2

・歴史をそんなふうに否定して、どうやって私たちを親しい関係を結ぼうというのか…
共感14非共感0

・歴史を自分たちの口にあうように歪曲してきたからなふふふ
共感14非共感0

・もし本当に共同歴史教科書が出たら、日本は悪いところしかない。
共感14非共感0

・共同教科書を発行すれば、日本は良く描写できるものが一つもない。ふふふふ
共感17非共感3

・私たちはおまえを隣人ではなく、島国という。
共感16非共感2

・チョッパリ馬鹿。
共感16非共感2

・日本が言う歴史は歴史というより神話というのがより合ってる。
共感13非共感0

・日本は北東アジアの敗者だったから、誇りを持とうとして、そのために非人道的な野蛮な行為をした。
共感13非共感0

・放射能猿のような人間ではないものと歴史を論じるのか?
共感13非共感0

・もう日本を抜いて、中国、モンゴル、ベトナム、ラオス、タイ、カンボジア、マレーシア、ミャンマーなどと、韓国は団結してみたらどうか?
共感13非共感0

・大韓民国の力を育てよう。
いつまで猿に弄ばれるのか。
共感14非共感1



韓国人が学校で教わり、日本が受け入れるべきと思ってる「正しい歴史観」を見てみましょう。
リンク先が読みにくいので、羅列してみました。
以下をざっと流し読むだけで分かる。

http://www7.plala.or.jp/juraian/ktextbook.htm


国定中学校国史教科書
kuksa





























・歴史は今日の生を照らす鏡であり、明日を見通せる窓ともいう。したがって、歴史の叙述は過去が暗いからと隠したり、ないものをあると誇張してはならない。歴史の叙述は偏ることなく厳格でなければならない。(p. 4)

・君の古朝鮮建国はわが国の歴史がとても古いことを物語る。また、檀君の建国の事実と「弘益人間」の建国理念は、以後、わが民族が困難にあうたびに自負心を呼び覚ます原動力となった。(p. 20)

・また、伽耶の一部勢力が日本に進出し、日本の古代文化発展に奉仕した。(p. 44)

新羅の仏教は日本に大きな影響をおよぼした。(p. 74)

・新王朝を建てた勢力は古朝鮮を継承するという意味で国名を「朝鮮」とし、都を漢城に定めた。(p. 129)

・水軍が勝利を収め、義兵の活動が活発に展開されている頃、明の援軍まで到着して朝鮮は倭軍に反撃を加えるようになった。(p. 150)

・7年間の戦争は朝鮮の勝利に終わり、日本の侵略の意図は挫折した。日本は朝鮮を降伏させられず、領土も得られなかった。それにもかかわらず、この戦争で最大の被害を受けたのは朝鮮だった。(p. 151)

しかし、朝鮮からいろいろな文化財や先進文物が日本に伝わり、日本の文化発展に寄与した。(pp. 151-152)

通信使は日本の要請を受けて日本に渡り、手厚い待遇を受け、日本の文化発展に貢献した。彼らが訪れた後には、日本国内に朝鮮の文化と風俗が広まるほどであった。(p. 152)

・このような勢道政治が続き、各種の不正腐敗によって国は乱れ、あらゆる苦痛は民衆に帰ってくるしかなかった。(p. 178)

・民衆は国の政治が正され、西洋の侵略から国が守られることを願った。(p. 191)

・一方、明治維新を通して新しい国家体制を整えた日本も通商修好を要求してきたが、その外交文書に日本国王(天皇)が朝鮮国王を見下す表現と従来の外交慣行に反する内容があったので、朝鮮政府はこれを拒否した。(p. 196)

・日本に居住していた朴烈は、日本王室[皇室]の結婚式が行われた日に、日本国王[天皇]親子をとり除く準備をしていて発覚し、日帝が敗北するまで22年間も監獄で苦痛を味わった。(p. 279)

金九が率いた韓人愛国団の団員李奉昌は、1932年に日本の東京で韓国侵略の元兇である日本国王[天皇]を処断するため国王の馬車に爆弾を投げたが成功しなかった。(p. 277)

・江華島条約では朝鮮が自主国家であることを明らかにしたが、朝鮮に不利な規定が含まれていた。(p. 200)

・しかし朝鮮に勢力を浸透させる機会をうかがっていた清が軍隊を送って興宣大院君を拉致し、閔氏勢力が再び政権を握った。(p. 202)

・しかし朝鮮に勢力を浸透させる機会をうかがっていた清が軍隊を送って興宣大院君を拉致し、閔氏勢力が再び政権を握った。(p. 202)

・甲申政変以後も朝鮮に対する清の内政干渉は相変わらず激しかった。(p. 204)

・このように日本軍の侵略行為が露骨になると、農民軍は日本軍打倒を掲げて再び立ち上がった。(p. 211)

甲午改革はきちんと行われなかった。これは政治的、社会的不安と日本の侵略的干渉に対する国民の反感が大きかったためである。(p. 214)

・清日戦争が日本の勝利に終わり、それまで改革に消極的だった興宣大院君が退き、それぞれ日本とアメリカに亡命中だった朴泳孝、徐光範などが帰国して改革をおし進めた。政府は国王の名でわが国が独立国であることを掲げ、洪範14条を発表して改革の内容と精神を明らかにした。(p. 213)

・抗日義兵運動が展開され、国内の騒乱に乗じて、ロシアは彼らの勢力を拡大しようとした。(p. 226)

・清日戦争後、ロシアは満州鉄道敷設権を獲得するなど勢力を拡大させ、わが国にも勢力を浸透させようとした。(p. 235)

断髪令は表面的には朝鮮の近代的改革を掲げたものだったが、これには韓国の伝統を断ち切って韓国人の民族精神を弱めようとする日本の政略が隠されていた。(p. 225)

・開港以後続いていた日本の経済的、政治的侵略と明成皇后殺害に怒った国民の反日感情が、断髪令をきっかけに爆発して抗日義兵が起きるようになった。(p. 225)

・大韓帝国は露日戦争で勝利した日本に外交権と軍事権を次第に強奪されていった。わが民族はこのような日本の侵略に対抗して、強力な民族運動を展開した。(p. 234)

・アメリカに住んでいた田明雲と張仁煥は、日本の推薦でわが国に外交顧問として来ていたアメリカ人スティーブンスがアメリカに戻って日本の韓国侵略を支持する発言をすると、彼をサンフランシスコで射殺した。(p. 238)

・義兵将として国内外で抗日戦を展開していた安重根は、初代統監としてわが国侵略の先頭に立っていた伊籐博文がロシアの代表と会談するためにハルビンに到着したたとき、彼を射殺して民族の独立の意志を明らかに示した(1909年)。(p. 238)

・李在明は日本の手先だった李完用を刀で切りつけ負傷させた。羅喆と呉基鎬などは五賊暗殺団を組織し乙巳条約に賛成した乙巳五賊など売国奴を処断しようとしたが、成功しなかった。(p. 238)

・柳寛順は裁判所で「私は堂々たる大韓の国民である。大韓の人である私がお前たちの裁判を受ける必要もなく、お前たちが私を処罰する権利もない。」と叫び、抵抗した。(p. 269)

・金益相は朝鮮総督府に爆弾を投げ、金相沃は独立志士に残忍な拷問を行った鐘路警察署に爆弾を投げて大きな被害を与えた。そして、羅錫疇は東洋織績株式会社に入っていきその幹部を射殺し、日帝警察と市街戦をくり広げた。(p. 278)

・一方、同じ韓人愛国団員の尹奉吉は上海の虹口公園(現在は魯迅公園)で開かれた日本軍の上海占領祝賀記念式場に爆弾を投げつけて日本軍をこらしめた。尹奉吉義士の義挙は当時日本の侵略を警戒していた中国人に大きな感動を与え、中国政府と中国人が韓国人の抗日独立闘争に積極的に協力する重要なきっかけともなった。(p. 279)

日本はわが国の近代化のための事業という名目で道路と水道施設を整え、銀行、学校、病院などを設立した。こうした施設はわが国に来ている日本人のためのものであるにもかかわらず、これに必要な施設費は私たちの政府が日本政府から借款を得て負担するよう強要した。(pp. 250-251)

こうして長い間独自の文化を創造しながら発展して来たわが民族は国を奪われ、日帝の奴隷状態に陥るようになった。(p. 257)

しかし、このような日帝の新しい植民地政策は親日派を養ってわが民族を仲たがいさせ、分裂させようとする狡猾な政策であり、韓民族の団結を抑え独立運動をくい止めようとする方針には変わりがなかった。(p. 259)

植民支配下で韓民族は日帝の経済的な収奪にひどい苦痛を被った。この中でもっとも大きな被害は土地を侵奪されたことだった。(p. 260)

日帝はわが国の国権を奪った直後、土地の略奪を積極的におし進めた。総督府は土地所有関係を近代的に整理するという名分を掲げて、いわゆる土地調査事業をおし進めた。(p. 260)

・また、申告主義を原則としたため、土地申告をきちんと行わなかった多くの人々が被害を被ることとなった。すなわち、申告手続きが複雑でややこしく、日帝が実施するものだったため反日感情が先に立ち、これに従わない場合もあった。(p. 261)

・さらに民衆の土地や村の人々の共有地、そして王室や公共機関に属していた多くの土地は持ち主のいない土地に分類され、総督府の所有地となる場合が多かった。(p. 261)

・総督府はこのように略奪した土地を東洋拓殖株式会社など日本人が経営する土地会社や韓国に渡ってきた日本人に安く譲り渡し、日本人が多くの土地を所有できる条件を整えた。(p. 261)

こうして、日帝は韓国の産業に対する侵奪を積極的におし進め、韓国を大陸侵略の足がかりとするため鉄道と道路、港湾と通信などの施設を整えた。(p. 264)

・そして日帝は私たちの民族精神を根絶やしにするため、いわゆる日鮮同祖論を主張し、内鮮一体と皇国臣民化のスローガンを掲げた。また、韓国語の使用を禁じ、日本語だけを使わせ、私たちの歴史を教えることも禁じた。ハングルで刊行されていた新聞も廃刊させ、韓国語と歴史に対する研究も禁止させた。(p. 263)

さらに、日帝は私たちの名前までも日本式氏と名前に変えるよう強要し、各地に日本の神社を建てて参拝させ、子どもたちにも皇国臣民の誓詞を覚えるよう強要した。(p. 263)

日帝は女性たちも勤労報国隊、女子勤労従軍挺身隊などの名で連行し、労働力を搾取した。さらに多くの数の女性を強制的に動員して、日本軍が駐屯しているアジアの各地域に送って軍隊慰安婦として非人間的な生活をさせた。(p. 264)




金星出版社版・韓国近現代史(高校)
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・およそ世界の強暴な国は日に日に弱国を侵呑し, 弱い種族を淘汰することを事としており、その惨毒を受けた者が列をなすが、わが韓国のような国はないようだ。古今の亡国として比較して、例えば、スウェーデンがノルウェーと、オーストリアがハンガリーといずれも合併したとは言うが、その民族の待遇は等級を置かないのに、韓国人もこのようだと言えるか。トルコがたとえエジプトを合併したがいまだその王をそのままにして祖先の祀りが途絶えないようにしたが、韓国の皇帝は蛮夷から爵位を受ける体たらくになった。英国がカナダ等の地でその憲法を持つことを承認し保障してやり、議会を建てこれを維持させ、他の国と締結した条約を全ていちいち保存するようにしているが、韓国人はこうした権利を獲得することができたのか?
彼らの韓国に対する施政は台湾で行うものと同じで差異が生じないようにしたが、台湾は国でもないのに同じ扱いをしているが、これは亡国としてもっと低い者として扱うものだ。また、およそ人は服を着て穀食で腹を満たすものだが、土を食らい泥水を飲む虫と同じではない。すなわち、生活を助けるのはただ産業があるだけだ。あの英国がインドとエジプトで、フランスがベトナムで、米国がフィリピンでたとえ力づくでその国権を奪ったが、民衆の財産は真に自分自身が保存できるようにした。日本は貧しい国だ。窮乏した民衆が多く、財政はますます悪化し負債はますます増えて行く。だから苛酷な税金と横暴な搾取を韓国人に加えるためその条目が煩雑なほど多い。そして空手で韓国に渡って来る貧しい日本国民が雲霞のように群がって来るが、わが国民の財産を奪わなくては生活して行けない。彼らの政府は植民することだけに急で、また彼らに与える物資がないため、たとえ韓国人に寛大な政治を施して生命の列を保存しようとしても事情が許さない。このように見れば、昔と今の亡国の惨状が韓国より酷い所をどこに見出すことができるか。天と地は遥かで、弱弱しい息づかいがぜいぜいと苦痛を訴えることを自ら止めることができない。

・米朝修好通商条約も江華島条約と同じく不平等な条約で、領事裁判による治外法権はもちろん最恵国待遇まで規定されていた。しかし江華島条約と異なり、比率は低いが輸出入商品に対する関税条項が入っていた。

しかしこうした改革は日本の侵略を随伴しており、斥邪儒生と多くの民衆の反発を呼び起こした。

・甲申政変以後清は余勢を駆ってさらに露骨に内政干渉をした。日本も侵略の足場を失わないために清と談判し、朝鮮から清・日両国の軍隊がすべて撤収することと、前もって朝鮮に軍隊を派兵する場合には互いに通告することを内容とする天津条約を結んだ(1885)。

・しかし俄館播遷以後朝鮮政府はロシアの干渉を受けざるを得なかった。

・日帝が乙巳条約の強制締結後大韓帝国を完全に併合するまで5年もかかったのは義兵抗争も大きな要因として作用した。

・倭奴ウェノムに従う奴らは聞け
畢竟あいつら[親日派官僚]が悪辣で、面長と洞長を捕えて行き、倭奴どもに追従し、貧しい部落に数千金のカネをばらまいて納めさせたが……天の道は元来正しいはずなのに、なぜ結局あいつらだけが永久に安楽に暮し、義兵と民間にはいつも怨讐を晴らす日を失わせるのか。 ……ああ!わが政府には大臣の職責を担う者どもが倭奴に従い、国を食いものにしている。汚い奴らだから期待することさえないが、いわゆる税務を遂行する面長などはわれわれと同じ民間人なのに……ああ!貴様らはなぜ禽獣になろうとするのか。よそ者の倭奴を敬うこと少しの忌憚もなく喜んで奴隷となり、倭奴の命令なら厳格に従うことわが主君の命令より厳格にして、民生の財物を奪うこと流星のごとく迅速で、わが主君を裏切り倭奴に忠誠を尽くし、実の親を捨て倭奴に恭敬し、忠誠と孝道の名誉を得ようとするのが貴様らでなくて誰だというのか。(金海山『陣中日記』)

・ 尹奉吉が投げた爆弾は、白川大将ら壇上にいた多くの日本軍将官と高官を殺したり負傷を負わせた。この義挙で戦勝祝賀式場はあっという間に阿鼻叫喚になった。

・ しかしこれは朝鮮人の不満をなだめようとする日帝の欺瞞的な術策だった。

・ 日帝は植民地生産力を高め、さらに効果的に収奪をする目的で、産業博覧会を開いた。

・ 朝鮮総督府は併合直後、臨時土地調査局を設置したのに続き、1912年には「土地調査令」を公布して本格的に土地調査事業に乗り出した。日帝はこの事業が地税を公正にし、土地所有権を保護し、土地の生産力を高めるものだと宣伝した。しかし実際には土地所有権を新しく法的に確定し、地税を安定的に確保することにその目的があった。また、土地の売買と抵当を自由にすることで日本人がたやすく土地に投資できるようにした。

・ 1918年に土地調査事業が終わったとき、事実上農民の所有だった多くの農地と公共機関に属していた土地、村または宗族の固有地で名義上の持主を申し立て難い洞中・門中の土地の相当部分が朝鮮総督府の所有になった。この過程で多くの紛争が起きたが、その解決は日帝に有利な方向で進行された。朝鮮総督府はこのように奪った土地を、東洋拓殖株式会社をはじめとする植民会社や日本人に安値で売り渡した。

・ 日帝は足りない米を朝鮮で確保する目的で、産米増殖計画をたてた。土地と水利施設、種子等の改良を通じて食糧生産を大幅に増やし、日本にさらに多くの米を持って行き、わが国の農民の生活も安定させるというのが目標だった。米の生産量はある程度増えたが、本来の計画どおり推進されなかった。反面、日本へ米の搬出量は継続して増え、1934年にはほとんど目標量に近くなった。これによって朝鮮内では食糧が不足し、満州から持ち込んだ雑穀等で食糧を充当して行った。

・ かくして日本の独占資本は、朝鮮総督府の支援を受けて軍需産業に集中的に進出し、これらの産業が奇形的に膨張した。この時期の軍需産業は、主に北部地方に集中配置された。1938年頃には、工業生上額が農業生産額より多くなる程度に工業化が進んだ。しかし消費財の生産は大きく減った。日帝による植民地工業化の結果、工業発展の地域的偏差はもちろん、農業と工業、軽工業と重工業間の産業間不均衡が大きくなった。

・ このような変化は皆肯定的に受け入れられたのでもなく、わが国の様々な地域で同時に進行したのでもなかった。このような変化の裏には植民地民の悲しみと抑圧、そして憤怒が染み込んでいた。

・ 1920年代末に電気が普及すると、ソウルの夜の街も変わった。ネオンサインが登場し、通りを明るくして人々を誘惑した。ネオンで治粧した都市の商店陳列場は新しい流行を伝えた。しかしこうした風景の背後には、日帝下の庶民たちの苦しい生活が隠されていた。

・ 日帝時期、タクシー等の自動車が登場して都心からは次第に人力車が駆逐され、牛を利用した車が消えて行った。人力車に頼って暮した庶民たちは、自動車の登場で生存権の脅威にさらされ、列車は夢と希望と憧憬よりは植民地民衆の傷跡として残り、われわれに悲しみを植え付けた。

・ 女性たちの社会的活動も活発になって行った。このような生活は、言論とマスコミを通じてさらに拡散して行った。しかしすべての女性たちに適用されたのではなかった。

・ 日帝が侵略戦争を遂行しながら行った最も反倫理的な犯罪行為は、女性たちを戦争に強制動員したことだった。初めには任意に朝鮮女性たちを動員した日帝は、戦争末に至り「女子挺身勤労令」を作ってこれを法制化した(1944)。挺身隊という名で動員された女性たちのうち、一部は日本と朝鮮の軍需工場に送られ強制労役を強いられ、また他の女性たちは戦場に送られ日本軍「慰安婦」として利用された。

・ 示威がある所には日本軍の無慈悲な殺戮が後に続いた。全国各地の監獄は万歳示威で捕らえられて来た人々で一杯になり、華城堤安里をはじめ全国各地で日本軍の虐殺蛮行が恣行された。

・ 3.1 運動、その中でも柳寛順が先頭に立ったアウネ市場の万歳運動は壮烈だった。いまだにアウネの三叉路には、あの日の泣き叫ぶ喊声がこだまするようだ。

・ しかし主権を喪失し日帝の経済的収奪が強化されると、生活基盤を喪失した多くの農民たちが日本に渡って産業労働者として就業した。これらは劣悪な労働環境で日本人資本家に搾取され、民族差別であらゆる侮蔑を受けた。

・ ついに日帝は内乱罪という途方もない罪をでっち上げ、これらを監査局に渡した。裁判にかけられた人々は、いつ開かれるとも知れない裁判を待ちながら、刑務所での苦しい生活を続けざるを得なかった。苛酷な拷問で、李允宰と韓澄は獄中で死亡した。

・ これに先立ち、1940年にはすでに親日言論に変質していた東亜日報・朝鮮日報まで強制廃刊する等、ハングルを使用するすべての新聞と雑誌をなくした。

・ これらのうちには日帝の脅迫に耐えかねやむをえず名前だけ掲げた人もいたが、自発的に率先して参与した人も多かった。しかしどの場合であれこのような親日派の蠢動はわが民族史の汚辱であり、民族精神に容易に拭えない害悪を及ぼした。

・ 親日活動には李光洙等の文人はもちろん、教育・芸術・宗教界の著名人と多くの知識人たちが加わった。

・ しかし日帝末期に至ると多くの宗教団体と宗教指導者たちが親日活動に積極的に出て、戦時動員体制に参与した。これらは日帝植民地政策を弘報するのはもちろん、日本軍を慰問したり慰問金の募金行事を開いたりした。

・ 1930年代後半に日帝の精神支配体制が本格化すると、多くの芸術人たちが親日的な芸術活動に参与したが、これは光復以後わが芸術界が克服すべき課題となった。

・ 日鮮同祖論は韓民族の独自性を否定し、日本の朝鮮併合と植民地支配を当然のことと受け入れさせることに目的があった。また1930年代に日本が掲げた内鮮一体の根拠に利用された。

・ このような主張[停滞性論]は、わが国の近代化のためには日本の役割が必要だという侵略美化論につながった。

・ いまだにわが社会の一角では、朝鮮王朝が党争で亡びたとか、わが民族は派争意識が甚だしいという主張を当然のものと受け入れる場合が多く見られる。

・ 他律性論は、韓民族の性向が積極的・自律的ではなく受動的・他律的だと非難するものだった。これを通じて、わが民族が帝国主義時代に日本の支配を受けるのは当然という論理をたてようとすることに目的があった。




代案教科書・韓国近現代史
*大論争を巻き起こしてる、いわゆるニューライト。
正式の教科書ではないです。
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・1894年8月7日、尹致昊は英文日記で閔王后に対して次のように書いた。「彼女の執権期にわたって彼女の信条は‘どんなことが起こっても良い。われわれ三人だけ安全なら’だった。三人とは王と王后と王子である。この至毒な利己主義は、彼女にふさわしい破滅をもたらした。」

・ 一方で甲申政変を低く評価し、その主役たちに植民地化の責任まで問うのは、1880年代当時韓国を半植民地に追い込んだのが日本ではなく清だったという事実を無視する問題点を抱えている。

・ 清の敗北で1895年4月に締結された下関講和条約は、韓国が「完全無欠な独立自主国」であることを確認し、「独立自主」を損う清に対する朝貢と事大関係を廃止するよう規定した。こうして韓国に対する清の宗主権は完全に廃棄された。この点で、日清戦争は開港以後にも清が維持しようとした東アジアの伝統的国際秩序である朝貢体制を最終的に解体した。しかし韓国の「独立自主」は、清に対してのみ意味を持った。日清戦争以後韓国は、清に代わった日本の支配下に入って行った。

・ (伊藤博文が)1906年大韓帝国初代統監として赴任した。韓国を日本の保護国として置こうという立場を取ったが、1909年4月の統監辞退直前に韓国併合方針に賛成した。

・ 以後統監を辞退した伊籐は、1909年10月ハルビン(哈爾濱)で東洋平和の大義を損ねた罪を問う安重根に被殺された。以後併合論はさらに強化され、1910年6月に東京で日本政府と統監府の人物から成る併合準備委員会が発足した。

・ 日帝の韓国支配は、韓国人の政治的権利を否定した暴力的抑圧体制だった。国内外の韓国人たちは不屈の闘争で独立の権利をついに勝ち取った。その時期は抑圧と闘争の歴史だけではなかった。近代文明を学習し実践することで、近代国民国家を建設し得る「社会的能力」が厚く蓄積された時期でもあった。

・ 土地調査事業によって所有権が事情された土地は、全国で総計1,910万7,520筆地に達した。そのうち所有地の申告どおり所有権が査定されたものが1,900万1,054筆地で、99.5%の絶対多数を占めた。その一方で無申告地として国有地に編入されたものは、主に墳墓地や雑種地だったが、合計8,944筆地(0.05%)に過ぎなかった。総督府が申告が何かも知らない韓国農民に申告を強要し、全体の40%に達する無申告地が発生すると国有地として没収したという既存の主張は、元来から根拠がないものだった。

・ 増産された米の相当部分は、日本に輸出された。1910年代後半に比べ1930年代の年平均米生産量は700万石仮量増加したが、そのうち570万石が日本に輸出された。

・ 植民地時期に韓国人の生活水準が日帝の収奪で極度に劣悪になったと見るのが、従来の通説だった。例えば生産された米の折半を日本に奪われ、韓国人は草根木皮の惨めな生活を強要されたといったものである。このような収奪論には、実証的な根拠が確実でないという問題点がある。米は日本に収奪されたのではなく、経済論理によって日本に輸出され、それによって日本人を包む韓半島全体の所得は増加した。米の代りに満州から粟と豆が代用食品として輸入された。米の1人当り消費が減少したのは事実だが、雑穀等の代用食品とその他の加工食品を総合的に考慮するとき、1人当り熱量摂取が減ったとは断言できない。生活費のうち食料品費の比重を表すエンゲル係数も下落し、人々の生活水準が改善したことを示唆している。1890~1920年代に生まれた韓国人たちの背が1~2cm大きくなったことも、生活水準の改善を意味する。

・ わずか30年の間に人口が50%を超えて増加したのは、公衆保健と医療の改善で死亡率が低下したためである。特に乳児死亡率が大きく低下した。伝統時代には紅疫病・コレラ・天然痘等の伝染病が流行し、これが飢饉と相まって人口の増加を抑制した。総督府は保健衛生業務を警察の所管とし、食水と飲食等の汚染源を管理して予防接種に力を入れ、伝染病の発生と伝播を防いだ。

・ 植民地韓国は、西洋帝国主義が支配した他の植民地とは異なり農業植民地に固着せず、1920年代以後工業が相当な水準に発展する特徴を見せた。それは韓国と日本が地理的にきわめて近く、両市場が密接に統合される中で、日本の過剰資本が韓国に渡って来て工業に投資されたためである。

・ 朝鮮王朝の林野政策は、公有の名分を掲げ私有林を認めなかったため、林野の私的管理主体がなく山林が荒廃する副作用があった。これと異なり総督府の林野政策は、林野の私的管理主体を創出し森林緑化を推進する方向で施行された。

 韓国人地主は小作農の管理を管理人に任せっ放しで、農業に積極関与しない者が多かった。それに比べ日本人地主は、米の生産と流通過程を細密に管理・統制した。

 このように韓国人に加えられた新しい規律は、日帝の植民地支配のためのものだったが、近代社会の規律として韓国人の日常生活と精神文化に徐々に内面化されて行った。

・ 解放後韓国ではこの挺身隊を日本軍の慰安婦と混同して来たが、このふたつは正確に区分する必要がある。

・ 1942年5月上旬、日本人代理業者が「慰安奉仕」をさせる韓国人女性を募集する目的で韓国に到着した。この代理業者が女性たちに提示したのは高額の給与、家族の借金返済、簡単な仕事、新天地シンガポールでの新しい生活等だった。このような誘いに乗って多くの女性が海外就業に志願し、何百円かの前貸金を受けた。これらは大部分無知で教育を受けられなかった女性だった。


↓執筆者は、こういうことになりました。
kuksa























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